南砺市に鎮座する神明宮。御祭神は天照大神。延喜式砺波郡荊波神社の論社。
集落に入る南の道路沿いに「村社 神明宮」の社号標とのぼりポール。
住宅地の前にものぼりポールが建つ。
住宅と車庫の間の参道。手前の家は一般の民家のようだった。
境内の入口に鳥居
拝殿に参る。
拝殿のサッシは開かなかったので、外で参ったが、提灯の後ろに扁額が見える。
本殿も覆屋の中のようだ。
右には境内社の秋葉社の石祠が建つ。
神明宮
富山県南砺市桐木155
南砺市に鎮座する神明宮。御祭神は天照大神。延喜式砺波郡荊波神社の論社。
集落に入る南の道路沿いに「村社 神明宮」の社号標とのぼりポール。
住宅地の前にものぼりポールが建つ。
住宅と車庫の間の参道。手前の家は一般の民家のようだった。
境内の入口に鳥居
拝殿に参る。
拝殿のサッシは開かなかったので、外で参ったが、提灯の後ろに扁額が見える。
本殿も覆屋の中のようだ。
右には境内社の秋葉社の石祠が建つ。
神明宮
富山県南砺市桐木155
南砺市に鎮座する石武雄神社。御祭神は石武雄神を主祭神とし、天照皇大神を合祀する。三代実録記載の石武雄神の論社。
社叢の森に向かって道路沿いに社号標が建つ。田の中を長い参道が続く。
参道の途中に鳥居が建つ。
参道沿いに雉子が一羽。追いかけっこするように参道を進む。
境内に入る石橋を渡ると二の鳥居が建つ。石橋の下には用水が流れる。
境内に入ると「本願寺五世 婥如上人御旧跡」の石碑が建つ。婥如上人が北陸布教の途中、倶利伽羅で老翁に話を聞いて、当地に一週間逗留したという。後に上人は瑞泉寺を開く。
拝殿はサッシに囲われている。
拝殿前に随神座像が立っている。高岡の有磯正八幡宮では入口に随神像が立っているが、拝殿前のものは初めて見た。
拝殿に参る。正面に大きな扁額が掛かっている。女武者が中央に描かれているので巴御前だろうか。巴御前は南砺市福光で亡くなったという伝説も残っている。
本殿もサッシに囲われている。
本殿の左に庭園がある。小山の上に社殿が建つ。
拝殿の右には社務所が建つ。
左方には宮司宅が建つ。御朱印をいただく。宮司が書いている間、奥様と話をしていた。社家河合家は現宮司で45代続いていて、寺から奥様が嫁いだ当時は地元の方に「ひいさま」(姫様)と呼ばれた時期もあったようだ。社宝は阿弥陀三尊像の懸仏で、かつての御神体であり、今でも三十三年に一度御開帳される(岩武三社権現式年開扉大祭。次回は2026年7月)という。
境内の東の田の中、一本の木の下に石碑が見えた。
近づいてみると「六郎塚」とある。
神社の縁起によると、崇徳天皇の天承年間、信州水内郡野尻の郷士河合典膳の子・河合五郎、六郎の兄弟が生れ国の守護神である熊野三神の霊夢によって越中国礪波郡石武野に移って統治したという。河合氏がその熊野三神を当社に合わせ祀り「岩武三社権現」と称し、残る懸仏も三社権現である。以来石武野は、河合氏の故郷の名に因んで野尻郷と称せられたという。六郎塚があるということは五郎塚もどこかにあったのだろうか。
石武雄神社
富山県南砺市野尻711
高岡市に鎮座する移田八幡宮。御祭神は移田大神、譽田別尊、天照皇大神、豊受大神。三代実録記載の杉田神の論社。
社殿は東向き。境内には大木が多い。
境内の外右側に赤い社務所が建つ。
境内の右には忠魂碑などが並ぶ。
境内に入ると左手に祭具庫か神輿庫
参道の燈籠は積まれた岩の上に乗っている。
拝殿に参る。
拝殿をのぞくと薄暗いが源平合戦のような大きな絵馬が正面に掛かっている。
拝殿の後ろは玉垣に囲まれているが、本殿の前に中門が建つ。随神が両側に座す随神門のようだ。
本殿は覆屋の中で、玉垣からの角度だと中がよく見えない。
拝殿左に広川社。明治の初めに二度の大火のとき、御神託により境内神木百六十柱の高神大神を祀ったという。
広川社の後ろには境内一の高さの御神木がそそり立つ。
拝殿の右側に境内社の稲荷社と
天満宮。稲荷社の屋根しかないような祠はなぜなのか気になる。
移田八幡宮
富山県高岡市中田4673
富山市に鎮座する日宮神社。御祭神は天照皇大神、天穗日命を主祭神とする。延喜式射水郡多久比禮志神社の論社。
境内は東向き。周囲は完全に市街地化しているが、境内の木の大きさからすると、周辺はもっと鬱蒼としていたのかもしれない。
入口の社号標には「日宮神社」とある。
裏にまわると「村社 手向神社」と書いてある。以前の社号らしいが再利用している例は初めて見た。
境内に二宮金次郎像
燈籠は掃除中か崩れたものか
拝殿に参る。
拝殿中央に唐子の奉納額、右に社号奉納額、左は第四次川中島合戦のようだ。
拝殿からは階段を下りて覆屋の中に本殿が入っている。
神明造の本殿
日宮神社
富山県富山市黒瀬北町2-14
富山市に鎮座する新川神社。御祭神は大己貴命、大新川命を主祭神とし、天照皇大御神、白山比咩命、琴比羅神、建御名方命、菅原道真公を合祀する。三代実録記載の新川神の論社。
新川神が新川郡の由来とも言われ、新川神社の建った場所を新川庄と呼び、後に略して新庄の地名が起こったという。
境内の西に道路が通り、交通量もそこそこあるので少し騒々しい。入口に「郷社 新川神社」の社号標が建つ。
扁額のかかる鳥居をくぐり、社殿までまっすぐ参道が通る。
拝殿に参る。
拝殿には正面に龍の彫刻がかかる。
拝殿には「卯杖、卯槌祝の額」が掛かっている。宮中で正月初卯の日に邪気払いとして行われたもので、天保四年まで新川神社でも行われた。奉納額は弘化四年に富山藩の画家が描いたもの。
社殿はコンクリート製
本殿右の建物は神輿倉か?
社殿の左を進むと奥に新しい参集殿が建っている。
授与所を見ていると、破魔矢と並んで薙刀開運導き守という変わった授与品があった。例祭で猿田彦神が薙を持って歩く。
境内の東に石碑が並び、一角に狛犬の先に2つの石が並ぶ。
陰陽石だという。
社前に隣接して宮司宅があり、御朱印をいただいた。
新川神社から徒歩3分の場所に新庄小学校が建つ。ここは東に常願寺川、西に荒川が流れる要害の地、北陸道に面する交通の要衝でもあった新庄城跡であった。新川神社は新庄城の守護神であって新庄城の落城とともに神宝などを焼失したという。本丸と推定される高台は、かつて御屋敷山と呼ばれ、小学校グラウンドになっているというが、削られて往時の面影はない。
新川神社
富山県富山市新庄町2-13-45
滑川市に鎮座する加積雪嶋神社。御祭神は大山咋命、大己貴命。
社前の北を通る道路の北が海であり、高い防潮堤が建っている。
通り沿いに「大岩道」という道標が残る。近くの北陸道分岐点に立っていたもので、立山へ向かう道しるべであった。
一の鳥居は北向き。「郷社 加積雪嶋神社」の社号標が建つ。
境内東側の通りに石碑が並ぶ。右2つは「北辰星」「庚申塚」と書かれている。道しるべも2つあるといい、右から4、5番目のものだろうか。立山大権現と書いた法華塔や地蔵も多い。
鳥居をくぐると右に折れ、二の鳥居の先に社殿。社殿は東向き。
拝殿に参る。拝殿前に前の社号「加積雪島神社」の扁額が掛かる。中には「加積雪嶋神社」の扁額が掛かっていた。
拝殿の左に飛び出す建物。高欄があり、舞殿のようにも見える。
幣殿、本殿と覆屋の中。
拝殿左に薬師神社。昭和31年創建の末社。
なぜ薬師かというと滑川地区配置家庭薬協同組合による建立だから。
薬師神社のそばにあるこの土台には何が立っていたのだろうか。銘板も外されていて不明。
加積雪嶋神社
富山県滑川市加島町2050
滑川市に鎮座する中加積神社。御祭神は天照皇大神、須佐之男神。
八坂社を神明宮に合祀し中加積神社と改称する。住宅街にあり境内の森が目立つ。加積郷は滑川市、魚津市、上市町にまたがる範囲であったと言われるが、現在は富山地鉄本線の中加積駅があり、一駅北西に西加積駅がある。近代まで加積郷の地名が残った地域だと言える。
鳥居は西向き。入口に鳥居とのぼりポールが建つ。
鳥居の先に建物があるが、社殿ではなく倉庫のようなもの。
鳥居をくぐって右に社務所。
反対の左に社殿。社殿は南向きで、拝殿前の左右の大スギが御神木になっている。
拝殿に参る。
本殿は覆屋の中だが、拝殿正面から明るければ少し見ることができる。
中加積神社
富山県滑川市堀江上前田156
黒部市に鎮座する新治神社。御祭神は譽田別尊、建御名方命、少彦名命。三代実録記載の新治神の比定社。
二度目の参拝。今日は御朱印をいただけた。書けるのは宮司の娘さんのみのようだ。
社殿へと続く参道。10月26日の夜から深夜にかけて行われるたいまつ祭りでは参道両側に大たいまつが並び、過去には火傷や喧嘩が絶えなかったという。元は早朝4時頃に神輿の宮入が行われたが、参加者を増やすため0時過ぎに変更され、神輿の担ぎ手も町会単位から満42歳の厄年に変更されて、他町会への当て付けもなくなり喧嘩は減ったようだ。
拝殿に参る。今は大きな松が目立つ境内だが、松は100年ほど前に植樹されたものらしい。
境内の西に広がる公園と月見嶋の清水は、100年ほど前に大正天皇が皇太子の時に近くを行啓する際に神社が町に寄付し整備したものという。
公園の清掃をしていた年配の方に声をかけられて少しの間話をした。
月見嶋の清水には鯉がたくさん泳いでいるが、近くの廃止された池や鯉商人から譲られた鯉を補充しているという。先日も100匹以上黒い鯉を入れたというが、20センチ以下の鯉は近くに巣を作るサギやトンビにやられて大きなものしか残っていない。まさに弱肉強食。
生地の地は湧き水も多く、各家には地下水の井戸があるといい、池も昔はブクブクと湧き水が沸いていたという。上流のダム建設や工場の地下水利用で水位が下がり、30メートルで出た地下水が80メートルも掘らないと出ないとか。
北前船の寄港地でもあった生地の港だが、小型漁船が主流になると少し南の石田の浜のほうに移り、船が大型化するに伴い、また生地に戻ってきたらしい。
黒部市では三島さん(八心大市比古神社)と並ぶほどの大社であった新治神社だが、かつては黒部川を挟んで入善のほうまで影響があったという。今は時代の流れなのか、宮司の対応なのか、見る影もない。
祭りの話、公園管理の話などいろいろと話を聞けて楽しかった。
新治神社
富山県黒部市生地716