四国中央市に鎮座する村山神社。御祭神は天照皇大神、斉明天皇(天豊財重日足姫命)、天智天皇(天命開別命)、天児屋根命。延喜式宇摩郡の比定社。
境内への入口は南向きだが、社殿は東向き。社前の道は讃岐街道。入口に「縣社村山神社」と「延喜式内明神大社村山神社」の2つの社号標が建つ。
少し坂を下ると鳥居
中間に神門が建つ。
神門には木造の随神が収められている。
神門をくぐると拝殿前にお宝塚がある。
石垣に囲まれた小山で、天皇の御陵所とも言われる。神域は斉明天皇が百済救援の道中滞在した磐瀬の行宮と伝えられ、その後長津と地名を改称したため長津宮と別称される。
御神木のホルト
拝殿に参る。
神明造の本殿
本殿左に境内社。脇に石鎚神社の石標があるが別のようだ。
拝殿右に3つの境内社。一番奥が諏訪社だけ読み取れる。
本殿右に一社と石祠
お宝塚と拝殿の間にも一社ある。いただいた神社由緒によれば、境内社は出雲社、合祀社、天満宮、八坂社、愛宕社、諏訪社、水神社、慰霊社の八社あるというが、石祠を覗くとすべては見ていない。
宮司宅が北隣にあり、訪ねて御朱印をいただいた。
村山神社
愛媛県四国中央市土居町津根1865
四国中央市に鎮座する土居神社。三代実録記載の井河神の論社のひとつ。
御祭神は明治の神社合併で、入野の住吉神社、浦山の奥姫神社、畑野の大元神社の三村社を合祀し、表筒之男神、中筒之男神、底筒之男神、神功皇后、大山積神、高龗神、大雷神、多岐理比売命、天之御中主神の九柱。
駐車場はないので近くの四国中央市土居庁舎に停め、歩くと境内入口だった。まだ参道は東に長く延びていたので、参道入口まで戻る。入口に鳥居と社号標。
社殿は東向き。
境内前や中にたくさんの歌碑が奉納されている。
境内の南に整備された神苑、その先に聳えるのは二ツ嶽。そこに源を発する浦山川の下流に広がる「すすぎが原」は、往古「入野のはら」に鎮座する歌神住吉明神として崇敬を集めてきた。明和2年に入野の俳人関卜と、その子時風らによって名所「入野のはら」が「歌枕の入野」として顕彰されると、多くの文人、墨客の立ち寄る俳諧の苑となったという。
拝殿に参る。
拝殿内に入ることもでき、中に住吉明神の頃の絵馬が掛かっていた。
本殿
拝殿右に旧本殿の合祀殿。祀られるのは元宮の住吉大明神四柱の他境内末社の、三嶋神社、喜之戸神社、荒神社、七福神、十二社権現、辨天社、風留神社、神之木神社、国吉神社、今霊神社、三大妙現、天神宮。
また旧拝殿も改修されて参集殿として残っている。
境内の北隣に宮司宅がある。御朱印をお願いすると神事の準備中だったというお忙しい中対応していただいた。待つ間に、境内の歌碑を一回りする。
土居神社
愛媛県四国中央市土居町入野196
新居浜市に鎮座する黒嶋神宮。御祭神は大山祇神、木花咲耶姫命、天御中主神。延喜式新居郡黒嶋神社の比定社。
現在は地続きになっている黒島だが、西側を工業地域として埋め立てした結果であり、東には大島が沖に浮かんでいる。
港沿いに路地を入っていくと道はだんだん狭くなっていく。神社前の参道に「式内 黒嶋神宮」の社号標が建つ。
境内へは階段を上っていく。
一区切り階段を上ると右手に社務所がある。参拝後に寄ってみたが留守だった。ちょうど境内の掃除を始める氏子の方がいたので、お話を聞くと数年前に宮司が亡くなったそうだ。今は氏子の方が交替で管理しているという。
鳥居の先、階段の向こうに社殿が見える。鳥居の扁額は「黒嶋神社」。
平成13年3月の芸予地震で鳥居が崩壊し、1年で復興したようだ。
階段を上がると社殿まで意外に広い空間が広がる。境内には天然記念物のツバキの群生林が広がる。
拝殿に参る。
賽銭箱の上に三色之宝珠
拝殿左に鰐石。初め陰陽石かと思っていたが、秀吉の朝鮮出兵のときに黒島から参加した3名の水夫が持ち帰ったものという。
本殿左に境内社の若宮神社
本殿には凝った彫刻が施されている。
参道右に境内社が並ぶ。
天神社
稲荷神社
松尾神社
石長姫神社
本殿裏には猿田彦神社他、陶器の社がたくさん並んでいる。
帰り、参道の先に三角形の秀麗な山が見えた。赤星山のようだ。
黒嶋神宮
愛媛県新居浜市黒島107
東温市に鎮座する徳威三嶋宮。御祭神は鹿屋野比賣神、大山積神、雷神、高龗神。三代実録記載の徳威神の論社。
内川にかかる由流宜橋を渡り、ゆるぎ公園の中を参道が延びる。橋を渡ったところに社号標
公園を抜けると、境内入口に鳥居と社号標
境内に入ると、左手に社務所。普段は無人のようで、宮司宅が裏にあるらしい。御朱印について尋ねたかったが、朝早かったので遠慮する。
参道の先、小さな神橋を渡り、社殿に至る。
拝殿はサッシで囲まれているが、開いたので中で参る。
木をそのまま割ったような扁額。拝殿の上には何枚もの絵馬が飾られている。
中に数枚、三十六歌仙がある。神社には明治34年に奉納され、文化財指定されている三輪田米山筆、藤田先蔵画の三十六歌仙絵馬が35枚あるというが、その一部だろうか。
御垣の中に本殿が建つ。
見ると左右に一社ずつ社が建っている。この2社は神社案内では境内社にカウントされていない。
神社は慶雲三年国司越智玉興が大三島から三神を勧請して上津社・中津社・下津社の三社を祀って「徳威三島神」と崇めたのを、寛永四年に松山藩主蒲生忠知が上津社・中津社を下津社に合祀したという。
よく見れば、この配置は大三島の大山祇神社と同じ配置であり、本殿の右に上津社、左に下津社ということであろう。
境内社は拝殿左にいずれも建つ。夷子神社
夷子神社の左奥に行くと十二社神社
境内の西端に五社の境内社が並ぶ。左から2番目には「祓戸四柱大神」と書かれているが、他は読めない。神社案内によると、残る境内社は龍神社、市之宮神社、和霊神社、荒神社、野田神社のいずれかとなる。
境内の東側に歌碑が奉納されている。
徳威三嶋宮
愛媛県東温市野田1丁目20番地11
松山市に鎮座する波賀部神社。御祭神は大山積命、雷神、高龗神を主祭神とし、寛王命を配祀する。
聖武天皇の御代に伊予の豪族越智玉純が大三島から勧請し石井郷一宮三島大明神と称す。後に嵯峨天皇の皇子寛王が、伊予国司として赴任しこの地で亡くなった折、神社の傍らに遺骸を葬り神霊を合祀したことから、社号を墓邉神社と改称したが、墓の字を忌み波賀部神社と改めたという。
神社への参道、社殿ともに南向き。参道入口に鳥居、社号標「國史見在 波賀部神社」。三代実録記載の墓邊神の論社。
参道沿いに並ぶ木は丸くきれいに剪定されている。
社殿裏の森は松山市内最大の前方後円墳であり、古墳時代後期の首長墓である。
拝殿に参る。
拝殿左に境内社の生目神社(左)と金刀比羅神社(右)が並ぶ。
本殿左には朝日社(左)と床浦神社(右)が並ぶ。
拝殿後ろ御垣内に本殿
本殿右には神輿庫
拝殿右には一事神社(左)と太刀打神社(右)が並ぶ。
波賀部神社
愛媛県松山市高井町1067
39歳を目前にして御朱印デビュー! 日本全国の神社の御朱印や参拝記録