以前加賀のとがし氏について「富樫氏」なのか「冨樫氏」なのか当社の見解を書いて修正版を作成しました。
加賀国守護とがし氏について
子孫が「冨樫氏」と認めたのにもかかわらず、多くの書籍がいまだになぜ「富樫氏」と書くのかについて、最近認識を深める出来事がありましたのでまとめておきたいと思います。(少々小難しいですがお付き合いください)
その原因は「康熙字典」という中国の清時代の漢字字典にあります。明治時代、日本では字体が複数見られる漢字の問題を解決するために当時漢字事典の集大成と言われた「康熙字典」に載る字体を正字と決めました。「とがし」の「と」の字は「富」と「冨」があったところ、「康熙字典」は「富」の字体であったため、常用漢字としては「富」が採用され「冨」は人名用漢字として以前から「冨」を使用している家に限り苗字に使用が許されることになりました。苗字でも基本常用漢字を使用することが決められているので「冨」を使用し続けることはできますが、一度「富」に変更すると元には戻せず、新たに「冨」を登録することもできないようです。
そこで「とがし氏」ですが、「とがし郷」を治めたことから名乗ったものと言われます。「とがし郷」は土地の名称であるため、古文献に「富樫郷」と「冨樫郷」が混在していても現在は「富樫郷」としか書けません。富樫郷由来の名前ならということで「富樫氏」が一般的になっていったと考えられます。「冨樫」の根拠となった署名が残る馬の図にしても、本家の政親筆と叔父の泰高筆という伝承もありはっきりしていないのが現状です。こうなると子孫が「冨樫」と認めたことが重要だろうと考えました。
今回、御城印・城郭カードの「冨樫館」は多くは「富樫館」と書かれますが、ここは冨樫氏の守護所であって本拠地ではないため「冨樫氏の居館」という意味で「冨樫」を採用しています。しかし、城郭カードの解説のほうに出てくる土地名は上記の理由で「富樫」を採用し、2つの字体を混在させています。人名と人名に由来する名称には「冨樫」を、土地に由来する名称には「富樫」を、と区別しています。「冨樫館」は見慣れないと思いますがご了承ください。
実は今回もう一つ字体の問題がありました。吉崎御坊の「よし」の字です。この字は正字が「吉(さむらいくち)」で、「𠮷(つちくち)」が人名用漢字となります。吉崎御坊に行くと、史跡碑や解説看板には「崎御坊」と「𠮷(つちくち)」が書かれているのです。多くの古文献にこちらの字が使用されていたのでしょう。しかし、「よしざき」は土地の名称であるため、城郭カードには「吉(さむらいくち)」を採用して「吉崎御坊」としています。
漢字ひとつにしても難しい問題があります。