1月1日16時10分、M7.6の能登半島地震が発生しました。阪神・淡路大震災の9倍以上のエネルギーで各地を破壊し、奥能登の海岸部で未曾有の4mもの地盤隆起を起こしました。明治以降の地震では初めてとなる大きな地盤変動(関東大震災、阪神・淡路大震災では2m沈下)、地震に強いと言われるトンネル内部の大崩落、ビルの基礎杭が折れて死者が出る事例の発生など初めての、つまり研究者も想定外ばかりの地震でした。多くの家屋が倒壊傾斜し、道路がズタズタになり、土砂崩れで山肌が露わとなって、その被害の甚大さと真冬の発生という悪条件が重なり、春になっても全く復旧は進んでいませんでした。
道路復旧と生活再建が最優先の中、文化財行政の関係者が文化財レスキューにより、仏像や絵画などの美術工芸品や貴重な民俗資料、歴史のある建造物の救出を続けていました。しかし、城跡などの史跡は国史跡を除いては今でも手つかずのままです。時が経てば地震で変化した部分がわからなくなる、という思いから地震後すぐにもう一度行かなければと決意したものの、奥能登の復旧の迷惑にならないように地震後に初めて入ったのは5月。すでに山城は下草に覆われて足元が見えない状況で、地震当初春先には入ろうと考えていた計画は大幅に遅れていました。それでも今までの経験から行けそうな城跡を選び被害状況を確認しに出向きました。
今年は山城に入る最適期の3・4月も加賀地方の被害状況を確認していたので、新しく城郭カードに追加できる城が少なかったため、被害を確認できた城を城郭被災カードにし、大きく変わった地形を地震地殻変動カードとして作成し、「能登半島地震応援セット」(御城印セット)を販売することにしました。観光客が激減した中で販売委託先の売上も厳しい状況にあり、ご購入していただいた方々には感謝いたします。
奥能登でも再開する商店や施設が増えてきて、ようやく観光の人出が戻りつつあった9月21日、復旧途上であった奥能登を線状降水帯を伴う豪雨が襲いました。川沿いの崩れた山の斜面がそのままだったためにその被害もまた甚大でしたが、すべてが土の城である奥能登の城跡にとってどれ程大きなダメージとなるか。地震で地割れや土砂崩れがあったとしても、土は付近に留まっているので被害状況から元の状態はなんとか想像できますが、豪雨により地割れが埋まり、土砂崩れの土が流れて斜面が洗われると見逃す場所も発生する。奥能登は開発されずに良好に残された山城の宝庫であるのに、ほとんど史跡指定されていないために復旧作業の過程で喪失してしまう心配もありました。
その豪雨から今日で3カ月、今年は11月に入っても暑さが続き、なかなか下草が枯れませんでした。ようやく山城にも入れそうな状況になったのは12月中旬、しかし気候はすでに冬に入り雨や雪の日が続いています。地震前の昨年12月も山城に入れたのは2日のみ、今年はもうおそらく入ることができる日はありません。しかし、なんとか4月までに奥能登で城郭カードを作成した城だけでもまわりたいと考えています。
豪雨の後、奥能登のある文化財担当者とお話ししたところでは、史跡や名勝に指定されている城跡でも実際に復旧が始まるのは2、3年先、生活再建が遅れれば5年先になるかもしれないということでした。それも国指定でなければ原状復帰の原則がないので土砂崩れした斜面を戻す可能性は低いそうでした。即ち、地震前の姿はもう見ることができないということです。それならば、せめてどういう被害状況だったかを伝えて元の姿を想像する一助にしてもらいたいと願っています。
豪雨によりそれまでに出向いた城跡も被害状況の再確認が必要となる中で、11月26日22時47分M6.6の地震が起きました。6月3日6時31分M6.0以来の大きな揺れでしたが、今、大きな不安の中で毎日を送っています。6月3日の震源は1日1日と同じで能登半島地震の余震と言えるものでした。しかし、11月26日は1月1日に動かなかった別の活断層で羽咋沖を震源とするものでした。能登半島地震は珠洲沖でM5クラスが2年続いた後に起きた地震でした。11月26日の地震が次の大地震の始まりでないことを祈るしかありません。
当面の目標は奥能登の城跡の被害状況の確認ですが、来年は白山市で9月に山城サミットが開催されます。山城サミットでは2年前8月の豪雨で立ち入り禁止になっている鳥越城や、能登半島地震で立ち入り禁止になっている七尾城を案内するツアーも予定されています。両城とも災害応急処置を終えて来春から一般入城できるようになります。全国から大勢の城郭ファンをお迎えして復興を応援していただけるように、ラインナップの拡充と新商品を準備してお待ちしています。来年もどうぞよろしくお願いします。